第4章 環境の不都合な真実ー環境こそが私たちの自由を阻んでいる。
「第3章 遺伝子診断の不都合な真実―遺伝で判断される世界が訪れる」は飛ばして、第4章に進もう。
1⃣『一卵性双生児のきょうだいの兄に英語を学ばせ、弟には英語を学ぶことを禁じたケース』を考えてみると・・・
関東人からみれば、関西人のそういう行動は、「寒い1人はしゃぎ」にみえているかもしれません。これは同じ環境や文化が違うことで意味が異なってきてしまう一例です。(ちなみに関西人がおしなべて「ボケ」と「ツッコミ」のコミュニケーションパターンを示しやすいのは、一種の共有環境の影響ーこの場合は家族によるものではなく地域文化によるものになりますがーといえ、、共有環境の影響が少ないとする行動遺伝学お第2原則に反する例でもあります。これは後述するようにある特定の状況下における学習された「社会的ルール」、あるいは「手続き的知識」として働いているといえます)。
(「遺伝子の不都合な真実」p129より引用)
ここには次の二つの内容がしるされている。
①関東人からみれば、関西人のそういう行動は、「寒い1人はしゃぎ」にみえているかもしれません。これは同じ環境や文化が違うことで意味が異なってきてしまう一例です。
⓶(ちなみに関西人がおしなべて「ボケ」と「ツッコミ」のコミュニケーションパターンを示しやすいのは、一種の共有環境の影響ーこの場合は家族によるものではなく地域文化によるものになりますがーといえ、、共有環境の影響が少ないとする行動遺伝学お第2原則に反する例でもあります。これは後述するようにある特定の状況下における学習された「社会的ルール」、あるいは「手続き的知識」として働いているといえます)。
⓶に『後述するようにある特定の状況下における学習された「社会的ルール」、あるいは「手続き的知識」として働いているといえます』
とあるのだが、「社会的ルール」「手続き的知識」という言葉がでてくいるのは、144pである。
『後述するようにある特定の状況下における学習された「社会的ルール」、あるいは「手続き的知識」として働いているといえます』
という文章は()内にある、
A『ちなみに関西人がおしなべて「ボケ」と「ツッコミ」のコミュニケーションパターンを示しやすいのは、一種の共有環境の影響ーこの場合は家族によるものではなく地域文化によるものになりますがーといえ、、共有環境の影響が少ないとする行動遺伝学お第2原則に反する例でもあります。』
にかかっている。
そのあとに続く文章は、Aについてではなく、
B『関東人からみれば、関西人のそういう行動は、「寒い1人はしゃぎ」にみえているかもしれません。これは同じ環境や文化が違うことで意味が異なってきてしまう一例です。』
の説明となっている。
こうした例は身の回りに探せばたくさんあるでしょう。ゲームで賭け事をすることは、ある文化では合法的な娯楽、別の文化では非合法的な犯罪となります。
~略~
同じ賭け事好き、世話焼き好きの性向や、幻聴・幻覚を体験する素質、個性的な投球を示す遺伝子たちを持った人でも、環境が異なれば人々からあたえられる評価や反応は異なってくる。
~略~
このように環境には、行動への「意味づけ機能」があります。
(「遺伝子の不都合な真実」129~131pより引用)
冒頭の「こうした例」はB,すなわち「同じ環境や文化が違うことで意味が異なってきてしまう例。」ということだと思われる。
『環境には行動への「意味づけ機能」があります。』
という文章は、「行動の意味は環境によって変わる」を言いかえたものだといえるだろう。
賭け事が合法的な世界でなら、正々堂々とゲームに打ち込めますが、非合法ならばゲームすることをあきらめるか人の目を隠れてすることになります。そうしますとおのずとゲームで使う能力、賭け事に対する能力は異なってきます。
~略~
クリケットというスポーツがない分化に育てばクリケットをする能力は全く育ちません。
~略~
行動に及ぼす環境の影響を、この点だけでみれば、確かに人間の行動は「環境によっていかようにも変わる/変えられる」という印象をもたれるでしょう。
~略~
私たちの行った英語教育の実験では、一卵性双生児のきょうだいに、文法中心の教え方と会話中心の教え方でそれぞれ学習してもらったところ、文法のテストでは文法中心のクラスで学んだ子のほうが、また会話のテストでは会話中心のクラスで学んだ子の方が、それぞれおしなべて成績がよいという結果でした。
~略~
しかしこれは環境の違いが、同じ遺伝的素質に異なる高さの能力をもたらしたといえます。
~略~
ですから、図表4-2が示すように、行動自体が環境によって異なるといえるのです。これは環境のもつ「学習誘発機能」です。
環境にはこのように意味づけ機能と学習誘発機能があるために、行動は環境によって異なってきます。行動遺伝学の第3原則である「大きな非共有環境」の正体の多くは、これらによるものと考えられます。
(遺伝子の不都合な真実 131~133pより引用)
C『賭け事が合法的な世界でなら、正々堂々とゲームに打ち込めますが、非合法ならばゲームすることをあきらめるか人の目を隠れてすることになります。そうしますとおのずとゲームで使う能力、賭け事に対する能力は異なってきます。』
D『クリケットというスポーツがない文化に育てばクリケットをする能力は全く育ちません。』
とあるが、これを学業成績におきかえると、このように言えるのではないだろうか。
C 親が「勉強を頑張りなさい」という家庭であれば勉強に打ち込めるが、「勉強なんかしなくてもいい。それよりも家の手伝いをしなさい」と言われる家庭であれば勉強をあきらめるか、親に隠れて勉強をするようになる。
D 勉強するという習慣がない文化に育てば、勉強をする能力は全く育ちません。
これはつまり、環境によって学業成績は変わる、ということである。
ただし「勉強しなくていい、ラッキー♪」と思う子、「勉強できなくて嫌だ」と思う子など、個人差はあるだろう。
E『一卵性双生児のきょうだいに、文法中心の教え方と会話中心の教え方でそれぞれ学習してもらったところ、文法のテストでは文法中心のクラスで学んだ子のほうが、また会話のテストでは会話中心のクラスで学んだ子の方が、それぞれおしなべて成績がよいという結果でした。
~略~
しかしこれは環境の違いが、同じ遺伝的素質に異なる高さの能力をもたらしたといえます。
安藤氏は、C・DのあとにEの文章を続けているが、
『一卵性双生児のきょうだいの兄に英語を学ばせ、弟には英語を学ぶことを禁じたケース』
について語ればどうなるだろうか。
『兄は英語を勉強することができたが、弟は勉強することができなかった。』
『英語のテストの成績は、兄が上で弟が下』
になるのではないか?
つまり同じ遺伝子をもつ一卵性双生児であっても、環境によって学業成績の差は生じるということになると思う。
F 環境にはこのように意味づけ機能と学習誘発機能があるために、行動は環境によって異なってきます。行動遺伝学の第3原則である「大きな非共有環境」の正体の多くは、これらによるものと考えられます。
Fを『一卵性双生児のきょうだいの兄に英語を学ばせ、弟には英語を学ぶことを禁じたケース』にあてはめて考えると次のようになるだろう。
一卵性双生児のきょうだいの兄に英語を学ばせ、弟には英語を学ぶことを禁じた・・・環境
兄は英語を勉強することができたが、弟は勉強することができなかった。・・・・・環境によって異なった行動をとった。
(大きな非共有環境)
G そうしますと本書がスポットを当てようとしている遺伝の影響はどこに行ってしまったのでしょう。
どこにも行ってはいません。それはすでにあらゆる行動の個人差の中に現れているのです。
それが行動遺伝学の3原則の第1原則「あらゆる行動は遺伝的である」が示すことでした。環境が持つ行動の意味づけ機能は、その行動自体が遺伝的な影響に導かれていることを前提としていました。環境の持つ学習機能は、それだけみると環境による行動の変容ですが、それも異なる環境に対する遺伝子たちの異なる適応の仕方ですので、そこには遺伝の影響が表れています。
(「遺伝子の不都合な真実」134pより引用)
これも『一卵性双生児のきょうだいの兄に英語を学ばせ、弟には英語を学ぶことを禁じたケース』について考えてみよう。
私は上に
『ただし「勉強しなくていい、ラッキー♪」と思う子、「勉強できなくて嫌だ」と思う子など、個人差はあるだろう。』
と書いた。
これが安藤氏のいう「行動の個人差」であり、これが「遺伝の影響」であると安藤氏は言っているのだ。
一卵性双生児の兄と弟は勉強をする環境が異なっており、環境による影響はあると思われるが
「一卵性双生児きょうだいペアa」の兄は「勉強ができてうれしい」、弟は「勉強ができなくてかなしい」と考え
別の「一卵性双生児きょうだいペアb」の兄は「勉強するのはいやだ」、弟は「勉強しなくてよくてうれしい」と考える。
そういうことだと思う。
先ほども書いたが、やはり、同じ遺伝子をもつ一卵性双生児であっても、環境によって学業成績の差は生じるということになると思う。
ところが安藤氏は『一卵性双生児のきょうだいの兄に英語を学ばせ、弟には英語を学ぶことを禁じたケース』については語らず、(双生児を用いて動物実験をすることになるので、こういう実験はできないのだろうが)
『一卵性双生児の兄には英文法中心、弟には英会話中心に学習させる』という例を持ち出して、「同じ遺伝的素質に異なる高さの能力をもたらした」といっている。
ここで安藤氏は『一卵性双生児のきょうだいの兄に英語を学ばせ、弟には英語を学ぶことを禁じたケース』について語るべきであったと思う。
2⃣遺伝の影響がないと考えている人はいるのか?
私たちはしばしば同じ環境を共有すると、同じ経験をし、同じことを学習すると考えがちです。これを錯覚であると証明したのがふたごの研究でした。
(遺伝子の不都合な真実 137pより引用)
10人の人と一緒にあるセミナーを受ければ、10人は同じ経験をし、同じことを学習したとはいえる。
しかし、受け止め方は人によって異なる。
それはYouTubeのコメント欄をよんでもわかる。
安藤氏が「同じことを学習する」とおっしゃっているのは、「同じような感想をもつ」「同じような理解の仕方をする」という意味だと思うが、
こんなことを考えている人が本当に多いのだろうか。
それが第2章で紹介した行動遺伝学の3原則のなかの第2原則「共有環境の影響がほとんどみられない」というものです。これは同じ環境に生活する家族どうしで多くの心理学的形質の類似性が遺伝要因で説明することができ、一方で同じ環境にいながらにない傾向もまた大きいという知見から導き出された結論です。これはとりもなおさず、同じ環境のもとで同じことを学ばせているのは遺伝要因であり、一方で同じ環境のようにみえても実はひとりひとりにとってその意味が異なることを指し示しています。
(遺伝子の不都合な真実 138pより引用)
この文章は『「共有環境の影響がほとんどみられない」というものです。これは同じ環境に生活する家族どうしで多くの心理学的形質の類似性が遺伝要因で説明することができ、一方で同じ環境にいながらにない傾向もまた大きいという知見から導き出された結論です。』
の部分、特に『同じ環境に生活する家族どうしで多くの心理学的形質の類似性が遺伝要因で説明することができ』という部分がわからない。
具体例があげられていないからだ。
それとも、今まで読み進めてきた中ですでに説明されているのを、私が見落としたのだろうか。
3⃣「共有環境の影響が少ないとする行動遺伝学の第2原則に反する例」は多くないか
それでは、1⃣のところで保留にしておいた、
⓶(ちなみに関西人がおしなべて「ボケ」と「ツッコミ」のコミュニケーションパターンを示しやすいのは、一種の共有環境の影響ーこの場合は家族によるものではなく地域文化によるものになりますがーといえ、、共有環境の影響が少ないとする行動遺伝学お第2原則に反する例でもあります。これは後述するようにある特定の状況下における学習された「社会的ルール」、あるいは「手続き的知識」として働いているといえます)。
に記されている「社会的ルール」、あるいは「手続き的知識」について記された箇所を読んでみよう。
もし震災によってひきおこされた経験が共有されているとしたら、このようにもともと私たちが共通の遺伝的条件(この場合はヒトという種としての条件)を共有しているからにほかなりません。
(遺伝子の不都合な真実 141pより引用)
(※安藤氏は2011年の東北大震災の際、多くの人が被災者を助けようとしたことについて語っている。)
このように共有環境の効果が表れ、同じ環境の中で同じ行動を引き起こされる背景には、実は同じ遺伝的条件があったからであると考えることができます。
(遺伝子の不都合な真実 142pより引用)
それから「孟母三遷」といわれるうように、その家族の住んでいる地域の教育レベルが影響しているという報告もあります。
しかし、こうした要因は、そもそも子供自身の遺伝的傾向がこうした環境を引き起こしているのではないかと考えてみる必要はあります。たとえば子供自身がもともと遺伝的に落ち着きがなさすぎたりすると、親にとっても子育てがしにくく、結果的に親から拒絶されたり乱暴に扱われたりして、さらに問題が大きくなるということが、私たちの研究でも示されています。しかし上に挙げた研究では、その可能性を直接間接に考慮してもなおかつ共有環境の影響があることが示されているのです。
このような共有環境の本質は「社会的ルール」あるいは「手続き的知識」として一般化されるのではないかと私は考えています。社会的ルールとは、必ずしも法律や礼儀作法に限りません。いわゆる手続き的知識とは一般に「こういう場合はこうする」という形で実際に行動として表現される知識のことです。
飲酒や喫煙、マリファナなど違法な薬物の習慣に共有環境があるのは、端的にその物質が環境の中にあるかないか、つまり家族やふたごのきょうだいのだれかひとりでもそれをもっているか、あるいは住んでいる地域や家族が関わりやすい人を通じて手にいれやすい物理的環境にいるかいないかが、かなり影響を持つからではないでしょうか。
(遺伝子の不都合な真実 143~144pより引用)
特異な家庭環境がもたらす経験、例えば虐待経験がもたらす対人へのネガティブな態度(これは好ましくない環境ですが)、お家芸、独特な歌風、家業に関わる観衆とそれによって形成される生活習慣や生活様式なども、社会的ルールや習慣を介して共有環境の効果が表れるものと考えられます。さらには大阪人らしいボケとツッコミのスキル(?)や方言、その土地にしかないものの扱い方(沖縄の人はサトウキビの食べ方、北海道の人はイカの川の向き方をみんな知っているなどといわれますが・・・・・・)のように地域制の有る習慣にも共有環境がみいだされるでしょう。
(遺伝子の不都合な真実 141pより引用)
内容をざっくりまとめて箇条書きにしてみよう。
①2011年の東北大震災のとき、多くの国民が利他性を見せた。
⓶もともと私たちが共通の遺伝的条件を共有しているため①の現象はおきた。(同じ遺伝的条件があった)
③子供自身の遺伝的傾向がこうした環境(親の態度)を引き起こしているのではないかと考えてみる必要はある。
④たとえば子供自身がもともと遺伝的に落ち着きがなさすぎたりすると、親にとっても子育てがしにくく、結果的に親から拒絶されたり乱暴に扱われたりして、さらに問題が大きくなる。
⑤④を考慮しても、なおかつ共有環境の影響があることが示されている。
⑥このような共有環境の本質は「社会的ルール」「手続き的知識」として一般化されるのではないか。
⑦社会的ルールは、法律や礼儀作法に限らない。
⑧手続き的知識とはに「こういう場合はこうする」というような知識。
⑨飲酒や喫煙、マリファナなど違法な薬物の習慣に共有環境があるのは、その物質が環境の中にあるかないかが、かなり影響を持つからではないか。
⓾お家芸、独特な歌風、家業によって形成される生活習慣や生活様式なども、社会的ルールや習慣を介して共有環境の効果が表れるのだろう。
⑪大阪人らしいボケとツッコミのスキルや方言、その土地にしかないものの扱い方、のように地域制の有る習慣にも共有環境がみいだされる。
⓶(ちなみに関西人がおしなべて「ボケ」と「ツッコミ」のコミュニケーションパターンを示しやすいのは、一種の共有環境の影響ーこの場合は家族によるものではなく地域文化によるものになりますがーといえ、、共有環境の影響が少ないとする行動遺伝学お第2原則に反する例でもあります。これは後述するようにある特定の状況下における学習された「社会的ルール」、あるいは「手続き的知識」として働いているといえます)。
とあるが、
⓶もともと私たちが共通の遺伝的条件を共有しているため①の現象はおきた。(同じ遺伝的条件があった)
は大阪人のボケ・ツッコミについてもいえるのだろうか。
上の記事によれば大阪人の出身地は、大阪59%、兵庫、外国、京都、奈良、鹿児島とある。
私も両親も大阪生まれだが、祖父(88歳)は岡山、祖母(89歳)は徳島出身である。
両親に聞いたところ、両親の友人の父母は四国、中国、九州地方出身が多いという。
おそらく昭和30年代のころの大阪人の出身地は四国、中国、九州地方などの割合が、現在よりも多かったのではないかと思う。
ということは、ボケ・ツッコミは遺伝の結果とはいえず
安藤氏もおっしゃっているように「社会的ルール」「手続き的知識」ということになるだろう。
安藤氏は「大阪人のボケ・ツッコミ」を「共有環境の影響が少ないとする行動遺伝学の第2原則に反する例」といっておられるが、このような例は例外とはいえず、いくらでもあるのではないだろうか。
たとえば岩手県の人々は、辛抱強く、頑固で寡黙であるなどといわれる。
大阪・岸和田や堺の人はだんじり祭りが大好きで、会社を休んででも祭に参加する人が多い。
例が多いのであれば、「共有環境の影響が少ないとする行動遺伝学の第2原則」は本当にそういえるのか、疑ってみる必要がありそうに思える。
しかし行動遺伝学がみいだしてきたのは、「こういう知識やルールの有無が行動の個人差のすべてを説明するものでは決してない」ということです。
(遺伝子の不都合な真実 145pより引用)
これはつまり、「個人差には遺伝の影響がある」という当たり前のことを言っているだけである。
「個人差に遺伝の影響がない」と思っている人はそんなに多くないのではないだろうか。
ある公立中学校で生徒の成績が他の公立中学校よりも際立ってよく、越境入学がたえないという中学校を知っている。
高級住宅地にあるというわけでもない。
同じような環境にありながら、一駅向こうの公立中学校は特に優秀な生徒が多いというわけではない。
これなども安藤氏のいう「社会的ルール」「手続き的知識」によって、この公立中学校に通うと周囲に影響されて成績が伸びる生徒が多いということではないだろうか。
4⃣言語性知能は遺伝だけでは決まらないのでは?
この指摘を安藤氏にすると「不都合だから真実が受け止められない」と言われそうだが、指摘しておこう。
文法を正しく運用する能力は、遺伝的に言語性知能の高い一卵性のペアでは文法中心の学び方をした方が成績が良かった場合が多かったのに足して、言語性知能の遺伝的に低いペアでは成績が似なかったり、逆に会話中心の学び方をした方が成績が良い場合が多かったのです。これは異なる遺伝的素質が、異なる環境に対して、異なった学習の成果を導いた好例と言えるでしょう。これを「遺伝・環境間交互作用」と呼びます。
(遺伝子の不都合な真実 141pより引用)
ここに、「遺伝的に言語性知能の高い一卵性のペア」「言語性知能の遺伝的に低いペア」とでてくる。
これは正しい表現といえるだろうか。
言語性知能というのはIQテストの結果を言っているのだろうか。
(私はIQテストを受けたのが小学生のときで、ほとんど覚えていないのだが)
このテスト結果がよいと「知能が高い」、テスト結果が悪いと「知能が低い」と表現するようである。
とすれば、「知能が高い」「知能が低い」という表現は問題がないと思う。
問題は、そこに「遺伝的に」という言葉をつけて「遺伝的に言語性知能の高い一卵性のペア」「言語性知能の遺伝的に低いペア」のような表現をしている点である。
これは道徳的に問題があるといっているのではない。
科学的にみて間違いではないかと私には思えるのだ。
まずIQテストは信用できない、という声がある。
次にIQテストの成績は変化するといわれている。
そして一卵性双生児の知能が似ているのは、遺伝のほかに共有環境があると考えられる。
「1⃣『一卵性双生児のきょうだいの兄に英語を学ばせ、弟には英語を学ぶことを禁じたケース』を考えてみると・・・」で書いた内容をまとめておこう。
①安藤氏:クリケットというスポーツがない文化に育てばクリケットをする能力は全く育ちません。
これを学業成績におきかえると
「勉強するという習慣がない文化に育てば、勉強をする能力は全く育ちません。」となる。
安藤氏:一卵性双生児のきょうだいに、文法中心の教え方と会話中心の教え方でそれぞれ学習してもらったところ、文法のテストでは文法中心のクラスで学んだ子のほうが、また会話のテストでは会話中心のクラスで学んだ子の方が、それぞれおしなべて成績がよいという結果でした。
~略~
しかしこれは環境の違いが、同じ遺伝的素質に異なる高さの能力をもたらしたといえます。
①から、
『兄は英語を勉強することができたが、弟は勉強することができなかった。』
『英語のテストの成績は、兄が上で弟が下』がはいいが、弟は英語のテストの成績は悪いという結果』
になると考えられる。
つまり環境によって学業成績の差は生じるということになると思う。
とすれば、IQテストによる知能の高い低いは、遺伝要素だけでなく環境要素もあるということになる。
よって、安藤氏は「遺伝的に言語性知能の高い一卵性のペア」「言語性知能の遺伝的に低いペア」のような表現をしているが、この表現は適切ではないと思えるのだ。